学生時代に打ち込んだこと
いつも嘉門の大将ブログをご覧いただきありがとうございます。
今日はまたプライベートの話しを書き綴りたいと思います。嘉門の記事ばかりではなく、プライベートを書くことでお客様に僕の人となりが分かってもらえると嬉しいし、ご来店された時にブログきっかけで話しが盛り上がったら楽しいと思うので時々自分自身の事も書いていこうと思います。
僕は、小学三年生の頃から高校卒業するまで野球をしていました。なので趣味というか人生の一部分になっているくらい野球が好きです。特にドラゴンズが好きで、選手の出身高校も言えるくらい野球好きです。プロ野球が開幕してからは一つ楽しみが増えました。そして今のところドラゴンズが強いからさらに楽しいです。
過去を振り返ると、小・中・高と野球をしていた9年間はもちろん坊主頭で、坊主以外の髪型をしたことがない野球少年でした。もちろん小さい頃の夢は『プロ野球選手』。小・中・高ではどのカテゴリーでもキャプテンをしていました。小・中はピッチャーで4番という野球の花形のポジションで、今でいうドジャースの大谷君のように投打二刀流でまさにチームの顔としてプレーしていました。当時の野球界を牽引していたのはシアトルマリナーズで活躍していたイチローでしたので、イチロー二世かと自分だけ思ってました。笑
何の疑いもなくプロ野球の世界に行けるものと確信していました。子供の頃の根拠の無い自信ってびっくりですね。でも高校に入学したらそんな夢は木っ端みじんに砕け散りました。1日でプロ野球の夢は断念しようと決めました!!笑。
それくらい先輩たちの体のでかさ、打球の力強さ、ピッチャーの投げる球の速さに衝撃を受けました。高校は市立岐阜商業高校という学校で、2つ上の先輩が岐阜県大会準優勝、1つ上の先輩が岐阜県大会を優勝して甲子園に出場しています‼まさに市立岐阜商業が全盛期くらい強かった時代なので、先輩方の能力が高かったのでより衝撃を受けたのだと思います。
ちなみに母校では夏の大会のメンバーを選定する合宿が二回あります。二回とも合宿に参加すればほぼほぼメンバー入り間違いないと言われていて、当時二年生だった僕はとんでもないきつい合宿に二回とも参加してメンバー入り確定と先輩方にも言われていました。でも蓋を開けたらまさかのメンバー漏れ…。ここでメンバーに入れていれば、かっこよく元甲子園球児と言えたのですがそれは叶わず。
そして僕たちの代になると周りの期待が高まっているのは否応なしに感じるし、注目もされているのも感じます。野球部の仲間同士では市立岐阜商業野球部が創部してから成し遂げていない『連覇』が合言葉になり最大の目標にしていました。その為にきつい練習に耐えて頑張りました。
そして3年間の集大成の夏の大会は、まさかの岐阜県大会1回戦負けという泣くにも泣けない情けない結果で高校野球は終わってしまいました。
今でこそ笑い話しにできますが、当時は本当に悔しくてこんなにも涙が出るのかってくらい泣きました。あーめちゃくちゃ青春ですね。高校時代の3年間に経験したすべての事が僕の土台の多くの割合を形成していると思います。今では根性論とか忍耐力とか我慢する事がタブーのように扱われるようになっているけど、僕は野球を通してがっつりと根性論等を叩き込まれたお陰で、なにくそ魂でしんどい修行に耐えて独立することができたし、努力が必ず結果に結びつくわけではないけど、努力しない限り結果が良くなることはないという事も学びました。
嘉門を始めてから最初の頃は本当に肉体的にも、精神的にもきつかったけど(オープンして1か月で10キロ程痩せました)野球を通して学んだマインドで、(もちろんそれがすべてではない)しんどい時期を乗り越える事が出来たと思っています。
一回戦負けという結果はどうあれ、今振り返るとあの時歯を食いしばって頑張った事、悔しい思いをした事、沢山の挫折、そこから這い上がる勇気、根性、つかの間でしかなかったけど嬉しかった事、10年間分の時間をぎゅっと凝縮したくらいの経験や感情を高校3年間で沢山経験できたと感じています。本当に野球をしてよかったなと今でも思っています。
僕の経歴を簡単に並べてみると元甲子園球児(応援席)、鎌倉で人力車車夫、そしてイタリアンシェフに憧れて飲食業に転身して、夫婦で世界一周して、帰国後まさかのうなぎ屋で修行、そしてうなぎ屋の大将として独立。なかなかインパクトのある経歴になりました。うん。このインパクトを残せるだけでもやっぱり人生無駄なことは無かったと胸を張って言えそうです!!笑
学生時代皆様はどう過ごされ、何に打ち込まれていましたか?このブログを見てくれたお客様とこんな話しで盛り上がるのも面白そうですね。最後まで読んで頂きありがとうございました。